コラム:分類理論のあり方(雑誌「数理科学」2013年10月号)

 ヒトは分類好きな生き物である。太古の昔に狩猟採集生活をしていたころ以来、何が食べられるのか、いかに処理をすればよいのか知ることはもちろん重要なことであっただろう。また、薬となる動植鉱物をその効果で分類し、それを伝えていくことも重要であったに違いない。こうした分類理論は、東洋においては人間にとっての有用性に重点を置いた本草学として発展したが、西洋においては、人間の役に立つかどうかとは係わりなく、自然界に存在するもの全てを系統的に分類する博物学として発展していった。「博物学」というのは、英語の「Natural history」の訳語として明治期に作られたものだそうである。どちらの場合も、通常の手段では手に入らない珍しいものをありがたがることが多かったようだ。人類の分類にかけるこうした情熱に鑑みれば、数学研究においても全研究の少なからぬ割合が何らかの意味での分類理論である事も納得できる。更に言えば、数学研究とは数学的事実を列挙記述しようとする営みであるのだから、分類理論の目的がしばしば分類そのものであることももっともである。

 アインシュタインは「この世界について最も理解しがたいことは、それが理解可能であるということだ」と言ったが、私はヒトがどうして数学を理解できるのかについて興味を持っている。ヒトの基本構造は何万年も前から変わっていないそうであるが、そうであるのなら当時、数学を理解できることに何らかの生存競争上のメリットがあったということになろう。既に述べた分類に対する情熱のほか、位置関係を把握する幾何学的能力、(多分言語運用に関連して)抽象的なシンボルを操作する代数学的能力、そして緻密な計量を行う解析学的能力など、確かに役に立ちそうである。私たちは原始の時代に獲得したこうした能力を流用することによって数学を理解しているのだと思う。ひょっとしたら数学の諸分野が大雑把に幾何学、代数学、解析学と分類できるのは、利用する能力に進化の過程で別々の起源があるからかもしれない。もし宇宙人が存在したら、その数学は我々の数学とは質的に異なっているのかもしれない。宇宙人はともかく、電子頭脳が産み出す数学ならば、私が生きているうちに見ることが出来るのだろうと思う。数学研究は将棋やチェスのようなルールと目的のはっきりしたゲームとは本質的に異なるが、既に将棋やチェスの世界では電子頭脳が、ヒトならば直感的に悪手として即座に捨ててしまう手の中からも妙手を見つけ出してくるそうである。

 こうしてとりとめもなく考えるに、数学という学問が極めて大きな多様性を持ちながらも、同時に統一感を保っているのが不思議なくらいで、数学者が分野により得手不得手があるのも当然のことなのであろう。例えば私は、出会った当初から位相幾何学が苦手であった。いくら学んでも自分に浸透して来る気がしなかったものだ。現在ではもちろん位相幾何学とは直接関係ない分野を研究しているのだが、たまに係わらなければならないホモロジーの概念は今も全く理解できていない。ただ道具として必要次第で使う程度である。そういえばフォンノイマンは「数学とは理解するものではない。慣れるものだ」と言っていた。

 冒頭ではああ述べたが、実は私は「分類理論」も苦手である。分類理論は特定の分野ではないので、苦手というよりは単に嫌いであると言った方が正しい。一口に分類理論と言っても、対象を特徴によって大雑把に類別するものから、対象に固有のラベル(完全分類不変量)を貼ることによって完全目録を作るようなものまで多様である。標準形やそれを求めるアルゴリズムを研究することもある。これら分類理論のうちで私が苦手とするのは、完全目録を作ろうという考え方そのものである。そうしたことが重要であるし、役に立つことも間違いないが、サプライズこそ数学の生命力の源だと信じている私には、このカタログに載っているものが全てですなどと言われると、なんだかつまらなく思えてしまうのだ。そういえば私は整理整頓が苦手だ。もっとも私の散らかった研究室には、カビたお菓子がたまに発掘される程度で、何のサプライズもありはしないのだが。

 前置きがずいぶんと長くなってしまったが、本題の分類理論に関する最近の話題にひとつ触れたい。有限生成アーベル群の分類定理は群論の初年度で習う基礎定理であるが、同定理によれば特に、捩れのない有限生成アーベル群$A$は、自由アーベル群${\mathbb Z}^d$に同型である。つまり、捩れのない有限生成アーベル群はその階数で分類できる。以下アーベル群といったら全て捩れのないものを考えることとし、アーベル群$A$の階数は${\mathbb Z}$上線形独立な元の集合の最大個数として定義されるものとする。では、有限生成とは限らない有限階数アーベル群$A$はどのようにしたら分類できるのだろうか。階数が$1$のとき、即ち$A \hookrightarrow {\mathbb Q}$のときは1937年にベールが以下のように解決している。任意の元$x \in A$に対してその特性関数$h_x\colon \{\mbox{素数}\} \to \{0,1,2,\ldots,\infty\}$を $$h_x(p)=\sup\{ n : \mbox{$A$において$x$は$p^n$で割り切れる} \}$$ として定義する。このとき、$A$の階数が$1$であることから、$0$でない勝手な元$x,y \in A$に対して、$h_x(p) \neq h_y(p)$となる素数$p$は有限個しかないこと、またそのときの特性関数の値は両方とも有限であることが分かる。この$2$条件をもって関数$h_x$と$h_y$は同値であるといい$h_x\sim h_y$と書くことにする。つまり、特性関数$h_x$自体は$x \in A\setminus\{0\}$の選び方に依存するが、その同値類は$A$の不変量となっている。この同値類がさらに完全不変量であるというのがベールの分類定理である。即ち、階数が$1$のアーベル群$A$と$B$とが同型であるための必要十分条件は、$0$でない元$x\in A$と$y \in B$をとってきたとき、$h_x \sim h_y$となることである。ここで、分類のための不変量が、特性関数という実態のはっきりしたものではなく、特性関数の同値類というあやふやな形をしていることに注目してほしい。実際、具体的な特性関数が二つ与えられたとき、それらが同値であるか否かを判定することは完全には容易でない。ベールの定理はすぐに階数が$2$以上の場合にも拡張されたが、事態はさらに悪化し、特性関数は数列に替わって行列の列となり、特性関数の間の同値関係は極めて複雑なものとなってしまった。つまり、特性関数が同値であるか否かを判定するのが、もとの群が同型であるか否かを判定するのと同程度に難しくなってしまったのである!それ以来75年経ったが、その間の多くの努力にもかかわらず、簡潔な分類定理(あるいは有効な分類手段)は見つかっていない。しかしつい最近になって、そのようなものが実は存在しないことが分かってきた。最近の記述的集合論の発展により、ある数学的対象(ここでは階数$2$のアーベル群)を分類するための「計算可能」な不変量は、その対象の間の同型関係と同程度以上に複雑な形を持つ必要がある、という言われてみれば当たり前のことが数学的に厳密な意味で成り立つことが分かったのである。もちろん、階数$2$のアーベル群全体の「集合」から実数への写像$F$で$A \cong B \ \Leftrightarrow \ F(A) = F(B)$となるものは存在するが(濃度の比較と選択公理による)、このような完全不変量$F$は決して「計算可能」にはならないのである。