<1> 数学セミナー 8 月号

弦双対性の示唆する22世紀の幾何学: 母空間, 保型空間

(増補版: オリジナルは数学セミナー1997年8月号)
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目次

1.序
2. 保型形式
3. 4次元多様体上のインスタントン
4.アファイン・リー環とその指標
5.母空間とは?
6.双対性を理解したい!


1. 序

1994年にハーバード大学の物理学者ヴァッファから電子メールが送られてきて, 頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けたことを, つい昨日のように思い出します. そのメールの内容は次のようなものでした. 4次元多様体 X の上のインスタントン数が n のインスタントンのモジュライ空間 Mnのオイラー数をe(Mn)としたときに,

(1)        Z(q) = Σn=0e(Mn) qn

 という関数を考えます. ここで, q は不定元です. (収束の問題は考えず,単なる形式的べき級数と考えています.) このとき, ヴァッファとウィッテンは, 上の関数が保型性を持つという予想をしていて, ある多様体の例, 当時私が研究していたALE空間という4次元多様体の場合に成立しているかどうかを知りたい, と尋ねてきたのでした. (使っている専門用語はおいおい説明して行きます. また, 細かい技術的なことを省くために上の記述にはいろいろと嘘があります.)

このように, 数列(今の場合は e(Mn) (n=0,1,...)のこと)が与えられたときに,上と同じようにして不定元を導入して級数として定義される関数のこ とを母関数といいます. 数列を各項ごとに調べるよりも一度に扱った方が物事が見えてくることが多いので, 母関数を導入して, その性質を調べることは数学の常套手段です. その顕著な例である保型形式を次の章で説明します.

ヴァッファの質問への答えはイエスであったのですが, 私が衝撃を受けた理由は, 次のものです.

第一の理由は衝撃的なものではありますが, 当時ドナルドソン不変量の母関数を考えるときれいな構造を持つというクロンハイマー-ムロフカの構造定理が証明されていましたので, その方面の研究者は, そのように考えるのがよいのかもしれないと``もやもや''と感じていました. その意味では, ヴァッファが母関数を考えたことは, 革新的に新しいかと問えばそうでなかったといっていいでしょう. クロンハイマー-ムロフカの構造定理(数学セミナー8月号の亀谷さんの記事に解説があリます)は, 違ったインスタントン数を持つ二つのモジュライ空間の間に関係をつけるような新しい空間(具体的には, 2次元部分多様 体に沿って特異性を持ったインスタントンのモジュライ空間)を導入することで証明されました.

一方, 第二の理由は有限個のモジュライ空間の間の関係として記述できるものではない, という意味で完全に新しいものでしたし, 保型性という数学者にとって親しみのあるものが, 今までまったく関連すると思われていなかった4次元のインスタントンの話題に現れたので驚いたのです. こちらが衝撃を受けた本当の理由です. 特に, 保型性の裏には2次元のトーラスが隠されていることが多いので, 4次元ゲージ理論の新しい広がりを感じさせました.

電子メールへの答えはイエスだったと書きましたが, その理由はALE空間の上のインスタントンのモジュライ空間のホモロジー群がアファイン・リー環の表現空間になっているという, ちょうどその直前に私がやったばかりの仕事を使うと分かるわけでした. もう少し詳しく言うと, アファイン・リー環の表現空間の次元(指標)が, 保型性を持つことはカッツ等の数学者が証明していて, それを使うわけです. カッツ等のその仕事のもっとも自然な説明(証明ではありませんが) は共形場理論と呼ばれるリーマン面の上の場の理論が与えてくれます. (アファイン・リー環については, 第4節を見てください.) 私の仕事でも上の第一の理由のように全てのモジュライ空間達を一度に取り扱うことがやはり必要で, それでアファイン・リー環という構造が初めて見えました. しかし, 第二の理由に当たる, なぜアファイン・リー環が見えてくるかの説明が自分でも出来ず, やってみたら全てうまく行った, という類の仕事でした. それで, ヴァッファ達の仕事は自分がやっていることの説明をしてくれるに違いないものと期待したわけです.

ヴァッファとウィッテンが保型性を成り立つと予想した根拠は, 4次元のゲージ理論における双対性(正確には, S-双対性という)にありました. 双対性は, 1994年の時点では成立する根拠はあまりはっきりしていないもので, むしろ作業仮説といった傾向が強いものでした. しかしその後, 多くの物理学者の研究の結果, 現在ではゲージ理論の双対性は弦理論における双対性に昇華され, そちらを認めればゲージ理論の方の双対性は従う, ということになっています.

このあと私も, 物理学者からいろいろと質問される機会もあり, また私自身も物理の論文を眺める(読む, 勉強するとは言えませんが)ことが多くなってきました. そのうちに, 双対性というものは非常に新しい発想であり, これを数学的に正当化するためにはおそらく, 現在の空間の概念を根底から覆すまったく新しい概念が導入される必要があるのではないだろうか, と強く感じるようになりました. 数学セミナー7月号の座談会の中で, 「ポスト多様体」とよばれているもののことですし, 個人的には, 「22世紀の幾何学の舞台」といっています.

別に, 22世紀と言う年号には意味はないのですが, 21世紀と言うとすぐ来てしまうので取り敢えずもう少し先に伸ばしておいたと言う程度の意味しかありません.

1997年の四月に日本数学会の幾何学分科会で講演をすることを依頼されました. 幾何学の人達の前で講演をするのは数年振りでが, 何を話すといいのかずいぶんと迷いましたが, せっかく講演するのでしたら双対性の宣伝をしようと思いました. そして, それが数学に新しい枠組みを求めていることを伝えたいと思いました. 双対性は, 現在の数学の枠組みで捉えることのできる予想も提出しているのですが, それを話すことをやめて, 何か我々の感覚から見ると全く親しみがないものを話したい, その様に思いました. 新しいことが起こりつつあることを汲み取って欲しいと思いました. この記事の目的も同じで, 双対性が現在の我々の枠組みから出ていることを感じていただきたいと思います.
 

2. 保型形式

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双対性がどのようなことを言おうとしているかを理解するためには, 保型形式(これは数学で昔から研究されている対象です)を念頭に置いておくとよいと思いますので, 簡単にまとめておきましょう.

z を上半平面上の点, すなわち虚部 Im z が正の複素数とします. 行列式が 12 x 2 実行列

[ a b ]
[ c d ]
に対して,
z' = a z + b / c z + d

で与えられる複素数 z' を考えると, これは再び虚部が正になります. さて成分が整数の行列式が 1 の行列の全体を SL2(Z)と書きます. 上半平面上の正則関数 f(z) が, SL2(Z) に関して重みが k の保型性を持つとは,

(2)       f(a z + b / c z + d) = (cz + d)^k f(z)

が成り立つときを言います. 特に, 行列として

T = [ 1 1 ]
    [ 0 1 ]
と,
S = [ 0     1 ]
    [ -1   0 ]
を取ると,

(3)        f(z+1) = f(z)

(4)        f(-1/z) = (-z)k f(z)

が成り立ちます. 実は, 逆にこの二つの式が成り立てば, 他の SL2(Z)のどんな元に対しても式(2)が成り立つことが分かります.

式(3)は, fz に関して周期的であることを意味します. そこで f をフーリエ展開し,

(5)       f(z) = Σn=-∞ ane2πiz

と表わすことにします. このとき, さらに an = 0 (n < 0) を満たすとき, fSL2(Z) に関して重みk の保型形式であるといいます. 本当のことをいうと, 最初に出した式(1)が保型性を持つためには,手直しが必要で, そのときは an = 0 (n< 0) は満たされず, 十分小さな nについては an= 0となることだ けが保証されます. しかし, ここでは技術的なことにはあまりこだわらないことにします.

保型形式の例をあげましょう. アイゼンシュタイン級数と呼ばれているものは, 4 以上の偶数 k に対して,

Ek(z) = Σ(m,n)≠(0,0)1 / (mz+n)k

で定義されるものです. 和は, (m,n) = (0,0) 以外の全ての二つの整数の組についてとります. このとき, k4 以上であることから上の級数は絶対収束し, 式(3)が満たされることは簡単で, 式(4)も

z-k Ek(-1/z) = Σ(m,n)≠(0,0) 1 / (-m+ nz)k = Ek(z)

とすぐにチェックできます. アイゼンシュタイン級数のフーリエ展開もよく知られていて

Ek(z) = 2ζ(k) + 2 (-2πi)k / (k-1)! Σn=1 σk-1(n) qn

となります. ζ はリーマンのζ関数で, σk-1(n)は, n の約数の k-1乗の和です. σk-1(n)という初等整数論的な数をまとめると, 保型形式になるところが興味深いですね. σk-1(n)を各n ごとに見ていただけでは何も見えてきませんが, 全部まとめて母関 数を考えると, アイゼンシュタイン級数となって全く違うやり方で定義することが出来る様になる. そちらで見ると, 保型性が簡単に分かる. そういう筋道になっています. 母関数のありがたみは, そういうところにあります.

保型性が分かると何がいいのだ, と疑問の読者の方も多いと思いますが, そこまで行くと双対性に戻れなくなってしまいますので, 深入りしないでここで止めておきます.

我々の4次元ゲージ理論のように他の分野と保型形式が思わずに繋がりを持つという話は, 他にもたくさんあると思いますが, 筆者に印象深いのは次の例です. モンスターとよばれる位数が最大の散発型単純群の既約表現の次元が, j 関数とよばれる保型形式(ウェイトは0 ですが)のフーリエ級数の展開の係数と関係があることをマッケイとトンプソンが観察しました.

その後, 頂点代数と言う非常に大きな無限次元代数が存在して, その自己同型群がモンスターであり, 頂点代数の表現が次数を持っていて次元を並べたものが j関数になっていると言う説明がフレンケルやボーチャーズ達の仕事によって明らかにされました. モンスターと言う群は, 単純群の分類の仕事の途中で発見された群で, 複雑なものなのですが, それが一見何の繋がりもない j関数(こちらはよく知られた保型形式)と関連するところが興味深いところです. このように思わぬところに顔を出すところに, 保型形式の奥の深さを感じます.

次に, 保型形式と楕円曲線(トーラス)の関係を説明しましょう. 楕円曲線とは, 複素平面を 1と上半平面の点zで生成される格子で割ってできる1次元の複素多様体です. 実多様体としては, 2次元のトーラスです. 実は, zz'SL2(Z)で移りあっているときは, 対応する楕円曲線は複素多様体として同型であることが分かります. 楕円曲線の全体を考え, 同型なものを同じと見なしてできる空間を(楕円曲線の)モジュライ空間と言います. 従って, 重みが0の保型形式は, モジュライ空間上の正則関数に他なりません. 重みがkのものは, モジュライ空間上のある直線束の正則な切断です. このように見れば, 保型形式と楕円曲線が関係することは明らかです.

さて, なぜ保型形式が物理学でも注目される様になったのでしょうか? それは, 弦理論が着目されたからです. 弦理論は, あとでもまた出てきますが, 点粒子の代わりに弦が空間の中を運動する理論です. 閉じた弦, すなわちS1が運動している様子を考えると円筒になります. 出発の弦と到着の弦を張り合わせれば, トーラスになります. 弦理論では, そのとき様々な物理量がこのトーラスの複素構造, すなわち楕円曲線にしかよらないことを通常仮定します. 複素構造は, 1次元では共形構造と同じなのでこのような理論は共形場理論と呼ばれます. とすると自然と物理量が保型形式と関係してくるわけです. ちなみに, 先に出てきたTという行列で楕円曲線を動かすことは, 時間と空間を入れ替えるような変換です.

3. 4次元多様体上のインスタントン

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4次元多様体の上のインスタントン(反自己双対接続)とは, 太田さんの記事の中にある一階非線形偏微分方程式を満たすような接続のことです. そのモジュライ空間とは, そのような接続の全体をゲージ群の作用で移り合うものを同じと見なしてできる空間のことをいいます. また, 反自己双対接続の曲率の二乗を4次元多様体上で積分したもの(正しくは, ある定数を掛ける)は, インスタントン数と呼ばれていますが, これは整数の値を取り, モジュライ空間の連結成分の上では定数です. そこで, インスタントン数がnの接続だけを集めてモジュライ空間を考えます. 最初に Mn と書いたものは, これのことです. n は,接続が定義されている主束のポントリャーギン類と呼ばれている量なのですが,大体接続がどれくらいねじれているかを測っている量です.

モジュライ空間の定義自体は難しいものではありませんが, 具体的にどのようなものであるかを調べようとすると, 難しくなります. その理由は, 偏微分方程式を具体的に解くことが通常は出来ないからです. たとえば, モジュライ空間が(一般には特異点を持つ)多様体になることは比較的簡単に証明されるのですが, そのトポロジーのような大域的な構造を調べることには困難がともないます.

ドナルドソンは, モジュライ空間のコホモロジー群の上の交叉理論を用いて, 4次元多様体の不変量を定義しました. このとき, 各インスタントン数ごとに不変量が定義できるので, 結果として不変量の列が出来ます. 実際に, ドナルドソンの不変量を計算することは, モジュライ空間を調べることが難しいために困難です. 数年間 n の値が小さいときにしか計算出来ない時代が続いたのですが, クロンハイマー-ムロフカは, ドナルドソン不変量の列の母関数が, 簡単な記述を持つということを証明しました. (亀谷さんの記事を参照)

最初に述べたのは, モジュライ空間 Mn のオイラー数でした. 実は, モジュライ空間がコンパクトでないために一般の4次元多様体について定義することはできておりません. しかし, ある種の代数曲面の場合には, モジュライ空間をコンパクト化したものがコンパクトな多様体になることが示されます. そのオイラー数を具体的に計算することは非常に難しいのですが, K3曲面や射影平面の場合には, 全てのnについてそのオイラー数が計算されています. 後者は, 神戸大の吉岡康太さんの美しい結果です.

私の研究は, ALE空間のときにモジュライ空間のコホモロジー群 H*(Mn) の直和の上にアファイン・リー環の表現が構成できる, というものです. オイラー数の母関数は表現の指標に対応しており, そのモジュラー変換性は, カッツ-ピーターソンが示しています. ここで, インスタントン数 n について直和を取らなければいけないところがポイントで, n を止めたものは表現のウェイト空間になっています.

表現を調べるのに, 各ウェイト空間ごとに調べることはありません. あとで述べる母空間を考えなければいけないと思った理由は, そんなところにもあります.

4.アファイン・リー環とその指標

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上に出てきたアファイン・リー環とその指標について簡単に説明しておきましょう. まず, ループ群, すなわちS1から有限次元のリー群Gへの写像の全体にGの積から誘導される積を入れて無限次元のリー群と思ったもの, 考えましょう. そのリー環は, S1からGのリー環への写像の全体に他なりません. これを複素化し, さらに中心拡大したものがアファイン・リー環です.

簡単のために, GとしてS1を取ったものを考えましょう. このアファイン・リー環は, 無限次元のハイゼンベルグ代数と呼ばれていて, P[n]Kを生成元として持ち, 関係式

[ P[m], P[n] ] = mδm+n,0 K,            [ K, P[m] ] = 0

によって定義されるリー環です. Kが中心拡大の部分で, これを0とおけば, S1が可換なリー環ですから, これも可換になります. その表現は次のように実現されます. 無限個の変数を持った多項式の全体 C [x1,x2,...,xn,....]を考え,

P[m] (m < 0) → xmを掛ける
P[m] (m > 0) → xmで微分し, m倍する
K → 恒等写像

とすることによって, 上の関係式が満たされることが分かります. 通常とは異なり, xmには次数mを与えることにして, 単項式に次数を入れます. 例えば, xmxnの次数はm+nです. このとき, C [x1,x2,...,xn,....]は次数がkの同次多項式の全体 Vkの直和に分解していますが, Vkのことをウェイト空間と呼びます. その次元は, kの分割の仕方の個数, 分割数に等しくなります. このとき指標は,

Σk=0 qk dim Vd =  Σk=0 qk x (kの分割数) = Πd=11/(1 - qd)

となります. 最後の等号は, 右辺を展開してみれば分かります. これは, Dedekindのη関数

η(q ) = q1/24Πd=1(1 - qd)
とほとんど同じです. q=e2πizとおくと, η関数 がモジュラー変換性を持つことはよく知られています.

今は, GがS1の場合でしたが, 一般のアファイン・リー環の表現のときも,モジュラー変換性があることが,カッツ-ピーターソンにより示されています.

上の類似で言うと, dがインスタントン数に当たるので, インスタントン数を動かして全部一度に考えたものが,  C [x1,x2,...,xn,....]となって自然なことが納得いただけると思います.

指標にモジュラー変換性があることは数学的に厳密な正しさで証明されていますが, 直感的には, アファイン・リー環が閉じた弦S1Gの中での運動(すなわち空間がG)を統制し, 指標はその物理量であることから, 第2節の最後で述べたようにモジュラー変換性が説明されます.

5.母空間とは?

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最初のヴァッファの質問に戻りましょう. 彼らの予想を証明しようとしたら, どのような方針が有効でしょうか? e(Mn) という数列を考えて, フーリエ展開の式 (5)によって関数 f(z) を定義し, そして f(z) が保型性 を持つことを確かめるという方針は, 馬鹿げています. まず, e(Mn) を計 算することが大変なこと, そしてたとえ e(Mn) が計算されていたとしてもそれがよく分かっている保型形式のフーリエ展開の係数と一致していることが分からなければ, 保型性をチェックするのはほとんど不可能です. アイゼンシュ タイン級数のときのように,
    1) 保型性が明らかな関数をうまく選び,
    2) それをテーラー展開して, モジュライ空間のオイラー数と一致すること を確かめる,
という方針が正しいはずです. しかし, どんな4次元多様体についても成り立つ証明を与えるためには, オイ ラー数のレベルでものを考えるのでなく,
    1) 保型性を持つある空間を取り, そして,
    2) その``展開''の係数としてモジュライ空間が現れる,
と空間のレ ベルで成り立っていることを期待する方が筋がいいように思われます. する と展開の逆として, モジュライ空間の列から数列の母関数のように空間を作る 操作も必要になります.

数列の母関数を考えることは, 今まで説明した以外にもよくある数学の常套手 段ではありますが, 幾何学ではこれまで表立って現れたことはありませんでし た. その一つの理由は, 幾何学で取り扱うのはあくまで``空間''であって数で はなかったからです. 数列から級数を作ることは明らかですが, 空間の列が与 えられても, その級数とはなんであるか, まったく分かりません. 始めの第一歩, 空間の``たし算''ってなんだろう, という質問からして明らかな答えがありま せん.

しかし, 他の数学の分野ではよく使われる考え方なのですから, 幾何学でもモ ジュライ空間(もっと一般に大切な多様体であれば何でもよいでしょう)の列を 考えるという発想を持った方が自然なはずです. すなわち, 空間の列を考える ことが間違っているのではなく, 今までそういうものを考えてこなかったこと が間違いであった, という認識のもと, 新しい研究対象として取り扱おうと私は提案しました. そのためには, まずは親しみのわく名前をつけるのが第一歩だと思 いましたので, ``母空間''と呼ぶことにしました. 母関数の``母'' は, 関数 を母親と見て数列の各項を子供と見立てて, そのように呼んでいます. (ちなみに, 英語では generating function という味わいのない呼び方をしま す.) 一方, 母関数の``関数''は,数列の級数が関数になっているので, その ように呼んでいるわけです. だから``母空間''と呼んだらいいだろう, という 発想の裏には, モジュライ空間の列をふたたび``空間''であると考えたいという意 識があります. 空間とは何であるかは,はっ きりした定義があるわけではありませんが,とにかく幾何学で取り扱うべき対象であるということを主張したいわけです. だから, この先研究が進んでモジュ ライ空間の列が何であるかはっきりしてきたら, 別の呼び名にかえる必要が当 然出てくるかもしれません.

母空間の一番簡単な例は, 対称積の列です. X を多様体としたとき に, X の点をn個, 重複も許して取ってきて, そして順番を入 れ替えただけのものは同じと思うことにします. このような点の集合の全体 の なす空間を SnXと書いて, n次の対称積と言います. X の n 個の直積 Xn = Xx...xX を n次対称群Snで割った空間 Xn/Snに他なりません. 便宜上, n=0 のときは, 一点からなる空間を考えることにして,

一点+ q X + q2 S2X + ..... = Σn=0qn Sn X
 
を対称積の母空間と呼び ます. とは言っても,我々の今の理解力では, そのま までは一つの空間のようには見えないので, 何らかのフィルターを通して分 かるところだけ取り出して来てみる必要があります.

6.双対性を理解したい!

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前の節で説明した母空間は, 双対性を理解するために必要な言葉に過ぎなかっ たわけです. アイゼンシュタイン級数との類似を考えて, 我々が何を必要とするかをもう一度再検討しましょう.
 
母関数/母空間 保型関数/保型空間
σk-1(n) Σn=1 σk-1(n) qn アイゼンシュタイ ン級数
Mn Σn=1 qn Mn ???
我々が, 本当に知りたいことは保型性をどのように理解したら よいか,であっ て, ??? に入る対象, すなわち保型性を持っている空間であっ て, 展開することによってその係数にモジュライ空間が見えてくるもの, を得 たいわけです.

じつは最初に述べたように, 弦理論における双対性(以下, 弦双対性)を用いて, (少なくともK3曲面とよばれ る重要な4次元多様体については)明快な説明がなされています. 弦双対性は現在物理でもっともホットな話題で, 解説するにはたくさんの言葉の準備を必要としますし, 私の能力を越えるところがあります. ですからおおざっ ぱに説明します. 弦理論は, 基本的な対象を点粒子の代わりに弦としようとい う理論です. 弦が非常に短いので, 我々の日常生活では点と区別がつかないと 考えられています. 理論が整合性を持つためには, 弦が運動する空間は 10次元でないといけないことが知られており,我々の時空が4次 元に見え るのは, 残りの6次元が非常に小さくまとまっているからだ, と考えられて います. この操作はコンパクト化と呼ばれています. さらに弦 理論には幾つかのタイプがあることが知られています. その中にヘテロティッ クと呼ばれるものとタイプIIAと呼ばれるものがあり, ヘテロティックな弦理 論を4次元のトーラスでコンパクト化したものと, タイプIIA弦理論を K3曲面でコンパクト化したものは, 同じ理論を異なる視点から見てい るだけに過ぎないと信じられています. (6次元ではなく, 4次 元の空間でコンパクト化しているので,現 実世界を記述するものではありませ んが, より簡単なおもちゃと考えられています.) そこで, この二つの理論は 双対であるといわれます.

タイプIIA理論を調べると,インスタントンのモジュ ライ空間の作る母空間のホモロジー群

H*n=0 qn Mn) = Σn=0qn H*(Mn)
が自然に現れます. このホモロジー群は, 双対性でヘテロティッ クな弦理論に移ると, BPS状態とよばれるもののなすベクトル空間と一致しま す. そちらで は保型性は昔からよく知られていたと言う筋道です. ヘテロティッ クな弦理 論は, 数学で言うと頂点代数の話と親戚(兄弟?)関係にあります.

上の説明は, アイゼンシュタイン級数のときとよく似ています. σk-1(n)の母関数を考えると, 保型性が明らかなアイゼン シュタイ ン級数で書けることが分かり, H*(Mn)の母空 間を考えるとヘテロティ クな弦理論のBPS状態となることが分かると言うわ けです. ただ, σk-1(n)の母関数がアイゼンシュタイン級数で書けることは, 比較 的容易にチェック出来るのに対し, 母空間の方は, 弦双 対性を使わなくてはいけないわけです. 難しさの一つは, 母関数から元の数列 を導くときに使われるテーラー展開を, モジュライ空間の母空間のときにどの ように考えたらいいかが全く分からないことにあります.

弦双対性の説明はなかなか難しいのですが, 弦理論には幾つかのバージョンが あり, 一見何も関連 のなさそうな異なるバージョンの間に,結び付きがあると 言うものです. 我々 が理解できる似た現象といえば, フーリエ変換でしょうか. 関数をフーリエ 変換すると, 微分が掛け算に変わってしまうわけですね. 微 分と掛け算が異 なるバージョンに対応します. これは単なる比喩ではなく, フーリエ変換が ストリング・デュアリティに深く関係していることが予感されています. とも かく弦双対性は, 未だよく理解されたとは言えない段階で, 現在活発に研究が 行われています.

ヴァッファによる弦双対性の比喩に, 異なるバージョンの弦 理論の間の座標変換である, と言うものがあります. 同じものの二つの違う見 方(=座標)に過ぎ ないと言うわけです. そして, 座標が貼り合って多様体に なっているように, いろいろなバージョンの弦理論達が貼り合わさって,一つ の理論(=究極の理論)を作っているわけです. 但し, 多様体はユークリッド空 間が貼り合わさっているだけで, 貼り合わせられるものは同じですが, ヴァッ ファの言っている究極の理論では, 一見すると非常に違うものが貼り合わせら れています. 例えば, 今まで述べてきたことでは,モジュライ空間のホモロジー 群の直和とヘテロティッ クな弦理論のBPS状態(=頂点代数の表現空間)が移り あっています. 我々数学者 の発想の中にはこの両者に関係があることを示唆 できるようなものは,何一つ ありません. みかけの異なる多様な対象が貼り合 わさってできる, と言うのですからこれこそ, ``多様体''と言う言葉がふさわ しいものでしょう. 今, 我々が扱っている多様体は, 至る所ユークリッド空間 と同じで, 単調な景色が続くので, ``単調体''と呼んだ方がいい, と私はいつ も言っています. また, アイゼンシュタイン級数の比喩を考えると,モジュラ イ空間の一つ一つ, しかもインスタントン数 n が小さいところを調べ ている我々の20世紀(既に終わりつつありますが)の幾何学がいかに, つまらな いかがはっきりします. それは,小さい n についてσk-1(n)を計算しているに過ぎなかったのです.


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