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: ポアソン方程式とグリーン関数 : 知られざるグリーン : グリーンの定理

George Green とは?

ガウスは大数学者であり, 数多くの伝記も書かれている. その人物像(極めて気むず かしい, 誰からも好かれないような人物であったらしい)もよく知られている. これに 対しグリーン はその公式こそ有名だが, どういう人物であったのか を知っている人はほとんどいない. しかし, D. M. Cannell によるかなり精密な 伝記があるので([1]), 以下これに従って彼の人生を振り返ってみよう. ([4]にも貴重な情報がある.)

グリーンの公式を見いだしたジョージ・グリーン は大変興味深い人物である. 1793年に生まれ, 1841年に病没しているが, 詳しい事実は分かっていない. 彼がグリーンの公式を含む 論文(エッセイと名付けられている)を発表したのはイギリス中部のノッチンガムという 工業都市であった. その論文ではグリーンの公式ももちろん導かれているが, もっと 重要なのはいわゆるグリーン関数というものを定義したことである. この考え方は 極めて革新的なものであった. 彼の論文は著名な専門雑誌に載ったわけではなく, 自費出版に近いものであったようである. ノッチンガムは ロビン・フッドの冒険で有名な都市であるが, 学問の 中心であるケンブリッジとかオックスフォードとはあまり縁のなさそうな場所である. そのようなところでどうして革新的なアイデアが生まれたのであろうか?  グリーンの父親は地元で繁盛したパン屋さんで, 事業を拡大して粉屋も開業し, 産業革命の発展による賃金労働者(その人々は当然パンを自分で作るのではなくお金で 買うことになる)の爆発的な増加のおかげで相当な資産家になったという.

家業を継いだグリーンは高等教育を受けなかったのだが, 独学でフランスの 論文(ケンブリッジやオックスフォードではないことに注意されたい) を読んで, 自分流の考えを発展 させたらしい. 「らしい」というのはよくわかっていないからで, 彼の偉大な論文も 20年ほどは全く忘れ去られ, 死後にウィリアム・トムソン( William Thomson ) によってそのアイデアの 革新性が認識されるまでまわりに理解されなかったのである. 彼の遺族もグリーン がそのような偉大な人物であるとは思わず, 様々な資料が散逸してしまった ようである. もちろん肖像画などが残ることもなかった.

さて, 彼は粉屋の仕事を続けながら独学をしていたが, 若い頃は父親の学問に 対する無理解もあって学問に専念できなかった. 父の死後家業を番頭格の人物に 預けて学問に本格的に進み, 35歳で最初の, そして歴史に残る偉大な論文を たった一人で書き上げたのである. 独学の天才はグリーン以外にもいる. 電磁誘導の発見などで有名なファラデーもほぼ同時代の人物で, 大学を出た わけではないが, 実験物理学で不朽の業績をあげている. しかし, 彼の場合は王立研究所の助手として 出発し, 優れた研究環境が自分のまわりに存在していた. これに対し, グリーンは アドバイスをしてくれる人物もなく完全な独学であった点は多いに強調されるべき であろう. このような仕事が一地方都市で, しかも数学者と しては異例の晩生人間によって, 独学で達成されたのは 当時のイギリスという国の底力を表しているようにも思える. (もちろん江戸時代の 我が国にも上流階級出身でないのに和算で名をなした人物もいるけれど...)

しかしあまりに革新的な考え方はすぐには認められず, 長生きしなかったせいもあって, 長い間彼に栄誉が与えられることはなかった. しかし, 彼のアイデアは現在の数理物理学には不可欠のものとなっており, その名誉を讃え, 彼は現在ではウエストミンスター寺院に アイザック・ニュートンの近くに葬られているという.



Kazuko Suenaga 平成17年2月14日